コンピュータに飽きたのにiPadは欲しいのは何故か

これはやはり、もう今の世の中の「PC」という概念が必要ないものとして固定化してしまった証ではないかと思う。

VAIOに代表されるスーツポケットインなノートが出ても、まったく欲しいとも思わなくなってしまった。かつてあれ程モバイルなパソコンにあこがれていた時期もあり、CLIEZaurusなどのデバイスをそれこそ捨てるように買ってきたにも関わらず。

どうしてそうなってしまったか。

一つはiPhoneによる手軽に情報とアプリを取得できる完成された端末が現れたこと。
もう一つは複雑になりすぎてしまったWindowsの操作。

この2つが大きいと思う。
正直、情報デバイスとしてはCLIEのNXシリーズやTH55シリーズで完成の形が見えていた。あそこから発展できなかったのは、SONYマーケティングのへたれさが原因であると思う。
今でもiPhoneより、使いやすいのでは?とある意味思えた端末なのに、市場から消える羽目になったのは、100%アプリの提供の仕方であったと思う。

開発をするのに有料のCodeWarrior、日本語の開発解説書の少なさ、コミュニティの少なさ。できる人を「神」とか崇めてたが実際はその人が神のようにプログラムの仕方を啓蒙していたわけでもなくただ単にモクモクといろいろ作っていただけ。

とてもオープンな考え方を持っていた一部の素敵な開発者は私の作ったパーツを組み入れたり、外部の人がカスタマイズして発展できるような仕掛けを作ってくれていたが、結局個人のできるところは限界もあり、なんというか、一部の人たちにのみ広まっただけだった。
また、それによるマニュアルやパーツも「有料は悪」というイメージが強く、マーケットとしても育ちにくかった。
SONYCLIE用にSONYSTYLEで販売を行ったが、正直、今のAppleのAppStoreと力の入れ具合が全く違った。

そもそも開発の窓口を狭くする、たとえば任天堂のゲームソフト開発のように開発機材に数百万かかってしまうようなスタンスの時代はとうに終わりを告げている。
開発そのものも時間がかかり、グラフィックや工夫が必要とされ、DSやWiiなどのゲームの中にゲームをいくつ入れられるかなんていう可笑しな現象まで現れている。

そんななか、iPhoneのアプリは一発芸でもOKという原点に立ち返る間口の広さで扱われた。「神」なんていらないのである。日曜大工のような人でも売ることができる、これが素晴らしい展開だった。

つまり、昔から日本で言われているように「ハードよりもソフトが重要」を自ら具現した唯一のPDAiPhoneだ。だれでもある程度コストをかけずに手軽にアプリを作れ、誰もがそれを取得できる、このサイクルがとても重要でCLIEには実現できなかったことだ。

iPhoneそのものの成功は、すべてこのサイクルに尽きる。

じゃあ、PCでも同じことができていたはずで、手軽なVBIISによるASP等でも同じだったじゃないか、というと、同じようで同じじゃなかったのだ。
まず、「難しい」というハードルが先にあったこと、そして「セキュリティが不安」というハードルが後からついてまわったこと、これらが人の動きに「怖い」「大変」「面倒」というイメージをつけてしまった。

その複雑さは、いったんXPという形のOSで簡便化に向かうはずだった。誰もがそれを期待していた。しかし現実は「色気」に走り、誰もが拒否したVistaになった。それをリファインしてシンプルになったとはいえ、俺でも使うのを躊躇うようなOSとして着地した。Office2007でも同じことが言えるのだが、UIを改変して「なぜ使いにくくなる」のかが解らない。
その辺、MacOSは着々と進化していき、MacOSXになったときに「使いにくくなった」と思われた部分をようやく改変できた。
でも、しょせんパソコンはパソコンで、使いやすいと使えるは違うという壁が残った。

いま、モバイルノートを買っても「ちまちまと使いにくそう」というイメージが強くてまったく欲しくない。
なのに、持ち運びに向いていなそうなのに、家の中でいろんなところで便利に使えそうとiPadでワクワクしている。
この差はなんだろう。

結局、ソフトなんだよな。

人と対話するUIというソフト、これは普通の人でも言えるけど、話しやすい人と話しにくい人、話してて内容が解りやすい人と判りにくい人、この差が如実にPCにも現れてきていることに皆が気がつき始めたんだと思う。
そして、余計なものはいらない、に繋がる。だって、「どうせ使いこなせないから」と。

日本は、物を売るのに「何かプラスアルファの1つの機能」を求めすぎた。
もっともっと、それを使いこなすのにもっともっと先回りの心地よさを求める方向に進化しなければいけない。
でなければ、未来がない。
スーツのポケットになぜ入れたいのか、を理解できず、スーツのサイズに入ることが重要だと命題して物を形作るというナンセンスなエピソードが生まれないはずなんだが・・・やはり作り手はもう消費者のことを考えてるのではなく「限られた資源で如何にだまして売るか」のみの発想になっていると思わざるを得ない。