「ニュータイプ」の果て

今期のシーズンで「鉄のラインバレル」と「ガンダムOO」を見ると、非常に対処的な結末を迎えている。

ガンダムの方では、「人は解りあえる。意識は共有できる。だから争いは無くせる」。
かたやラインバレルでは「人が解りあえるために導入した機械が、人の心を共有して個性を無くし、面白みの無いものにしてしまったのを元に戻したい」。

つまり、ガンダム→人は解りあえる、ラインバレル→解りあえば個性が無くなる、という展開なのだ。
どっちもどっちだな、これ(笑)

でも、甲殻機動隊のときもそうだけど、意識をコントロールできるものが導入されるときには細心の注意が必要っていうのが、分かるし、警鐘を鳴らしたので、リアルに興ったときにはなんとかなりますよね。


ところで、ガンダムOOはセカンドシーズンは割と面白いと感じましたが、1stシーズンは無茶苦茶つまんなかったですよね。

で、結局どっちがいいんでしょうかね。

解りあえることが素晴らしいのか、解りあえて全ての感情が共有化され、個性が無くなることを重視すべきか。
結構難しいですよね。

私は思うんです。

親子であろうと、恋人であろうと、夫婦であろうと、100%解りあえることは
ありえないって。
正直、40%解りあえたら、それでありなのかな、って思います。
あとの60%のうち20%ぐらいは想像かな。残り40%は願望。こうあって欲しいなっっていう部分。

だから、一番大切なのは、自分の波長が似ている人と一緒に過ごすことかな、って。
性格は違ってても、波長が似ていれば解りあえる気がする。

まー

疲れちゃうと、どっちも波長が乱れるから、難しいですけどね!

そうそう、ガンダムといえば、「ニュータイプ」ですよね。
ガンダムの世界では「ニュータイプ」イコール「解りあえる人たち、何も見ないで判る人たち」

現実の世界でも、最近、ニュータイプとオールドタイプの差が出始めているような気がします。例えば、Aの製品を触って同じ分野のBの製品をマニュアルとか見ずに触れてホイホイ使える人。初めての電化製品でも何も見ずにホイホイと目的の操作が出来てしまう人。
ようは「慣れ」の一言なんですけど、その慣れが身についている人と付いていない人が如実に分れてきているような気がします。

今時の製品なんて、マニュアル見なくても表示されている限定的なメニュー、機能ボタンの文字、選んで決定という今のコマンドの流れが身についている人は、大抵何もみないで触れます。
道を探して目的地に辿りつくのも、どこをどう曲がってどの辺をどのくらいの量進めばいいか、みたいな感じで感覚で辿りつけちゃったりします。

この場合のニュータイプとオールドタイプの違いは、畏れずチャレンジしてきた人の経験の差です。
また、整備され整理された情報で身の回りが構築されていた人と情報すら受け取って来なかった見ようとしなかった人たちとの差かもしれません。


ガンダム30周年。
恐ろしいことに、そして確実に、人は変ったと思いませんか。
30年前の親と、今の学生の世代。

次の30年後には、どんなになってしまうんでしょうかね。