最近、妙にシリアスな話題が続く。これは別に頭がおかしくなっているというわけではなくて、前々から感じていたことの1つで、今日は、これについて書こうと思う。



どうも正義という名のもとの悪党がまかり通っているような気がする。これは日本人に特有かもしれない。「水戸黄門」シリーズに代表される「勧善懲悪」を題材にしたストーリーが定着しすぎているためだ。

例えば、ドラゴンクエストやFFに代表されるR.P.G.ゲームは勧善懲悪だ。また、マンガでも勧善懲悪のヒーローものがたくさんと題材にされている。

どうして、悪は悪なのだろうか?

悪も正義も同じではないのだろうか?

人に危害を及ぼす存在と、その存在を打ち砕く勇者は同じレベルの危険分子ではなかろうか。事実勇者や英雄ってのは最後に「戦いでのみ勇者でいられる」という定義が最近浸透しはじめているではないか。

その力の使いみち如何で正義と悪が別れる。

でも、これは物語の「役」であるわけで、実際に「世の中に勧善懲悪はあってはいけない」と思う。悪の人だって心に秘めたる思いがあってその思いを実現するために「手を染める」わけだ。これは勧善懲悪という名のもとにモンスターや悪党等の命を奪うのと何が違うのだろうか?そこに大儀があるかないか、だ。でもその大儀そのものが正しいかどうかなんて、誰も判断できない。



 最近のゲームや小説、ドラマ等を見ているとこの正しき混沌とした世界を正しく描きつつあるような方向性がうかがえる。例えば赤川次郎の杉原爽香シリーズ。この少女は、刑務所から出所した男を愛して結婚しようとしている。そしてその彼は「やりたくて殺人をやったわけではない」という過去を背負ったわけだ。

ゲームの方では、WildARMS2。主人公は終始「力そのものに善悪はない」とつぶやく。悪党の1人は「部下のために戦う」という。

PlayStationメタルギアでは主人公がかつて2度も世界をすくう英雄でありながら、戦いの中でしか自分を見つけられないという現実に苦悩する。



風俗をしている人間をすさんだ目で見る人は、その人がどういう経緯でそこに至ったかという苦しみを知らない。生きていくために必死でいることを。



正義を当たり前に感じていると本当の正義を見失う。自分が正しいと感じ初め、まわりのことが見えなくなる。例えばあなたの感じている正義はどこから感じて、どういう経緯で信じれられる正義として思えるのだろうか?

人のために動く、これは本当にその人のためになっているのだろうか?その人のために何かをすることは逆にその人のやる気や頑張る力を削いでいるのではないだろうか?その人が「ふぬけ」になるのを助長しているだけではないのだろうか?



つまり、正義の「正」とは誰が判断するか、どう判断するかで考え方が180度変わる・・・つまり、正義の反対になるわけだ。

 誰かのために必死になっていてもそれが他の誰かにとっての何かを奪っていることを理解する、これが本当の正義の意味ではなかろうか。その「奪う」と「達成する」を同時に持って苦しみながら選択をできる人間、これが本当の正義である、と感じる。

 世の中、批判的なエネルギーが正しいものを正しいと認識させてくれる。何事においても「これは本当にいいことなのか?」と問いかけながら行動していけば、今いる場所を確認しながら動いていけば、それは「未知」だけど「道」である。

マイナスな感情は強いプラスへの憧れと情熱の裏返しである。愛しさあまって憎さ百倍という言葉があると同じように、憎しみを続けるとそれは愛に変わる。

どちらも思いへのパワーは同じなのだ。悪なのは人を狂わせる強き思い。つまり「正義感」なのだ。



あなたは、誰に、自分の正義を正義と教わったのだろうか?そして、何を正義と伝えるのだろうか?